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中央公論新社の郡司さんから、中公文庫をいただきました。

NHKの「八重の桜」で、佐久間象山門下の会津藩士として取り上げられており、印象に残る人物ですが、不勉強で全く知らなかった人物です。
京都にはゆかりの深い人物で、同志社大学の創立を可能にした人物です。
西周は、「百学連環」という言葉で記憶していましたが、「百一新論」も今回初めて読み、日本語で哲学を思考することを可能にした明治時代を再確認しています。
この本では、山本覚馬の会津と徳富蘇峰、徳冨盧花兄弟の熊本の関係なども書かれており大変面白く読めました。広島への帰省の足を伸ばして、四国の松山の道後温泉や山陰の松江に小泉八雲記念館を訪れたことがありましたが、英語教師としての夏目漱石が熊本でも八雲の後に第五高等学校で、同じく英語の教師を務めていたことを思い出しました。

これらの時代を深く知りたいと思うのは、歳のせいだけではないと思います。最近、電子書籍や電子図書館に関係することが多くなるとともに、これまでの重要な書籍が、このままでは死蔵されるだけとなるのではないかとの危惧を持つようになりました。

国会図書館の長尾館長(元)の構想のもとで、1968年までの書籍の電子化(画像)が進んできましたが、デジタル環境で知の空間を生かしてゆくためにはまだまだ不十分です。例えば、国会図書館のデジタル化資料では、「百一新論 巻之上」 「百一新論 巻之下」が著作権保護期間終了なのでそれぞれ公開されていますが、画像を1枚ずつ「次へ」を繰り返すしかなく、ざっと目を通すこともできない状態であり、かってのマイクロフィルム時代より使いづらいものです。デジタル化されていてテキストがコード化できていれば検索や分類・整理をコンピュータで行うことも可能ですし、紙の本ではできなかった電子的な書き込みや読書ノートをクラウド環境で発展させることも可能になると思います。

一方、出版社の電子書籍対応もAmazonの書籍端末の日本進出以降本格化しつつありますが、対象とするのは当然ながら新刊書です。我々が大学時代を過ごした1970年代から21世紀初頭までに出版された書籍は、電子化の狭間の時代であり、電子的に読むためには、古本屋で購入した本を自炊するしかない状況です。昨年来、台湾・中国・韓国の出版者の方々と交流する機会が増え、それぞれの国での電子化の状況を知るにつれ、日本の遅れに愕然とする次第です。

TPPで著作権保護期間を70年にという議論がありますが、旧態依然とした図書館法とあわせて、このままでは、東アジアで唯一、母国語で深い思索を行うことを可能としてきた日本の出版文化の凋落とともに若い世代の思考力低下に繋がるのではないかと思います。

アイキャッチの写真は、北茨城の五浦にある岡倉天心の六角堂です。岡倉天心も生誕150年、没後100年です。記念映画も公開予定。

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